スギヤマ薬品の薬剤師

 杉山貴紀は何故過労死
したのか?

 

 

杉山貴紀について

 

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下記の文章は、平成14年12月に豊田労働基準監督署へ提出した母の陳述書を抜粋加筆修正したものです。

写真は大学時代の貴紀、スギヤマ薬品(ドラッグスギヤマ)勤務時代に貴紀が陳列研究のため撮影した店舗の陳列棚や自作のPOP、そして最期の仕事まで着ていた白衣です。

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 私達の息子、貴紀が突然死してから、1年半の月日が過ぎてしまいました。
もう二度と帰ってくる事の出来ない所へ逝ってしまったのです。
 
今でも、その悲しみ、寂しさ、無念な思いは私の胸の中で、日に日に増し頭の中をズッシリと重く覆っています。
もう元の生活には戻れない、今までの様な幸せは来ないのです。
 
 今にして思うと、息子がスギヤマ薬品(ドラッグスギヤマ)へ入社した時、すでに、『過酷な労働条件とサービス残業、走り回らなければならない程の仕事量』という環境に置かれ、『死』という駅へ一直線に向かう 列車に乗せられてしまったのです。途中で下車して欲しかったし、乗り換えて欲しかった。でも停車する事の無い、無法列車ではそれも出来なかったのです・・・。
 
 
息子、貴紀は、昭和52年2月27日生まれで、小さい時から元気、健康で、スポーツが好きでした。
特にバスケットが大好きで、小柄ながらも中学時代、大学時代に楽しんでいました。
また、運動会の時などいつもクラス代表のリレー選手に選ばれたりと、足も速かったです。

正義感が強く、ひょうきんさもある、とても可愛い息子でした。
 
貴紀は、小学校の頃から「お父さんのような仕事をしたい!」「そして病気の人達の相談者となり助けてあげたい」と薬剤師を目指していました。
 


 
大学の薬学部に入学、バスケットボールサークルや勉強に頑張ったようです。そして卒業間際、小学校以来の夢が叶い、薬剤師資格を取得しました。
そして、夢と希望と期待に胸を膨らませスギヤマ薬品(ドラッグスギヤマ)へ入社したのです。
自分の道を歩んで頑張っている息子の姿を見守るという幸せを、私達はどれほど願っていた事か・・・。
 
その幸せも一瞬にして消えてしまったのです。
今までの自分たちの人生は、一体何だったのでしょうか?
そして、24年間頑張って生きて来た息子の命がこんなにも儚く、会社のために消えてしまうなんて・・・。
あれだけがっちりしたスポーツ好きな息子があんなにもやつれ、あんなにあっけなく死んでしまうなんて、余程の過労と心身的な無理があったとしか考えられません。
これからの人生だったのに・・・。楽しい事、やりたい事、これから叶うはずの夢が沢山あったはずなのに!
悔しさと無念さで、今にも押し潰されそうになります。

 
スギヤマ薬品(ドラッグスギヤマ)へ入社しなければこんなことにはならなかったのでは無いか、強引にでも辞めさせておけば良かったのでは無いかと悔いが残り、言いようの無い後悔の気持ちで一杯です。
 
 スギヤマ薬品(ドラッグスギヤマ)のズサンな労務管理体制に警鐘を鳴らすため、私達は命を懸けて努力していくつもりでおります。
 
生前息子が私に電話で、また帰郷した折に言っていた事などを追って連記致します。
 
 
 
 

 

 

<2000年5月>                                           ページTOPへ
 
研修を終え、永覚店へ配属になってすぐ、薬の担当を全部任された。
「新人としたら大変な仕事の量だが、1年間頑張ればきっと他の同期入社社員より、ずっとすばらしい、価値のある社会人して評価されるようになるだろう。大変だけど頑張ってくれ!」と店長から言われた。
 
<2000年6月>
 
「応援に来てくれている薬剤師のIさんは色々なことを良く知っていて教えてくれるよ。頭の回転がいいのかもね。」と電話で話していた。
 
 
<2000年7月>
 
「6月分の給料多かったよ、残業を付けてくれたから。だけど本当の残業分の半分も付いていない、店長から『来月からは付けられないぞ、これ以上付けるとまずいから。』と言われたよ。」と言っていた。
 
 
<2000年8月>
 
電話にて。
貴紀 「新しい靴を買って履いても一週間で『ボロボロ』になる。どれだけ大変か、お母さんわかる?」
 
私  「どうしてそんなになるの?」
 
貴紀 「一日中、店の中を走り回らないとならないくらい仕事の量が多いんだよ。」
 
私  「辞めたほうがいいよ。辞めなさい。」
 
貴紀 「辞めるのは簡単だけど、店長が期待してくれているし、途中で挫けるのは悔しい。頑張れるだけ頑張ってみるよ。」
と言っていた。
 
それからは、心配で心配でたまらなかった。
この頃には、Iさんは元の勤務地へ戻った様子だった。
 
 
夜、電話をしても11時半前に寮に帰っていた事はほとんど無く、留守電へ。12時過ぎに、留守電を聞いたと電話があり、「仕事なの?」と聞くと「そうだよ。だって仕事が終わらないんだもの。大変だ〜!」といつも言っていた。
 
 
 
電話にて。
貴紀 「今月の給料、残業手当が付いていない。やっぱり店長が言った通りだ。本当は何十時間もやっているのに。」
 
主人 「どうしてなのか店長に聞いた方が良いよ。」
とアドバイスをしていた。
 
貴紀 「他の店に配属になった同期生に聞いたら、僕より早く帰っているのに、給料が僕より多かった。なんでかな?おかしいよ、頭に来る!」
 
私  「店長に話した方がいいよ。」
 
貴紀 「機会を見て話して見るよ。」
と言っていたが・・・・。
 
その後、『毎月同じ』残業時間しか付けられてない・・不審な労務管理体制の一部を垣間見る。
 
 
息子は、店のお休みの時、他の店の陳列など写真に撮り、参考にして永覚店の陳列にアイデアを取り入れ、陳列を変えたりしていた。 
 
また、「僕が居るからと言って、わざわざ遠くから来てくれるお客さんも大勢になってうれしい。」
「野球の中日ファンの人には中日の話をし、巨人ファンの人には巨人の話しをするようにしている。そしたら巨人グッツを持って来てくれた。お客さんに僕の気持ちが通じた事が嬉かったよ。」
「『この間の薬、すごく効いてすぐ良くなったよ。』と言われると、とっても嬉しくてこの仕事をしていて良かったなと思う瞬間だよ。」と言っていた。
 
 
夜、寮に帰ってからも、POPの絵を書いたり、紙を切って動く看板を作ったりしていたようだ。
それで店を飾り、子供の目を引くように考え、その商品が売れた時はとても喜んでいた。
 
 
<2000年11月>                   ページTOPへ

 
「土日が休みの時、土曜日は、朝から夜まで何も食べずにずーっと寝ていないと疲れがとれない。 やっと日曜日になって少し動いてみようと思えるくらい疲れている。その上、日曜日に急に呼び出された時なんかは本当にツライものがあるよ。」
「同期入社した人達が、もう半分近く辞めたよ。」
「薬剤師の資格を持っているのに、普通の従業員の人達と同じ仕事ばかりさせられるので、馬鹿らしくなるんじゃない?仕事が大変過ぎるもん!」と言っていた。
 
 
<2000年12月>
 
「ボーナスの査定で、店長が全部『A』判定をくれた。凄く嬉しい。」
「『お前は性格が素直だ。言った事に必ず答えるそして嘘がない。お前の後ろにいる親はどんな親だろうか想像がつく。きっと親の育て方が良かったのだろうよ、お前を見ると分かる。』と店長に言われたよ。お父さん、お母さんは僕のお陰ですごく良く見られているよ!」と自慢げに言っていた。
また「だから、僕は店長と両親に感謝している・・・。」とも。
 
 
「僕に転勤の話があるみたい。でも店長が『もう少し俺の下でやってほしい、上の人に俺から話すけどいいな。』と言ってくれたよ。嬉しかった。要らないと言われる人もいる中でここまで言って貰えて、すごく店長に感謝している。」
「査定で『A』判定をくれたので、もう少しボーナスをくれるのかと期待していたけど、思っていたより少なかった。」と言っていた。
 
 
<2001年1月>
元日 帰郷の日
 
ボーナスを貰ったと、私たち両親にプレゼントを買って来てくれた。
主人には、名刺入れ。私には手袋。そしてリボンの着いた箱を出した。
「何?」「中を開けてごらん。二人で行ってきたら?」
中には旅行券が入っていた。
激しく痩せるほど頑張って働いた、血の出るようなお金で買った物。
その券は、尊くて、結局、今でも使う事が出来ずにしまってある。
 
そして、元旦の夜だけ泊まり、「明日から仕事だから」と言って、2日の朝、戻って行った。
この出勤に関しても、のちに勤務表と照らし合わせるてみると、明らかに勤務表が違っていた。
 
8日〜10日
私が何回か電話をしたが留守電ばかりで、どうしたのかな?と心配していた。
すると2〜3日後電話があり、「風邪で高熱があって寝ていた。」「医者へは行ったの?」と聞くと、「行ったけど治らない。」と言っていた。
「でも、明日は休めない、熱があっても出勤するつもり!」と言うので「店長に言ってちゃんと治るまで休ませて貰った方が良いよ。」と言うと「無理だよ。薬剤師が僕一人だもの。 休めないよ。」と言っていた。
・・・11日は出勤した。
心配で電話を入れた。「熱は?」と聞くと「計ると気になるから、計っていない。どうせ休めないんだし・・・。」
「一日勤められたから、良いのかも。」と言っていた。
それから、完全には治りきらないまま体調は崩れて行ったように思える。仕事は今まで通りハードな状況が続いていた。
今思うと、なぜ、ここまで無理しなければならないような勤務状態だったのだろう?
 
この頃から何回か「風邪薬を送ってくれ」と電話があり送っている。
 
 
<2001年2月頃>                                          ページTOPへ
 
とにかく、店の為、店長の為にと頑張っていた。
 
「売上を上げるためにはどうしたらいいかな?売上さえ上がれば薬剤師が2人にして貰えるし。その為にはどうしたらいいかな?」と主人に何回も相談を掛けて来ていた。
主人も何回か「コツ」を書いた手紙を送り、今も遺品の中に残っている。
 
 
大好物のステーキ肉をクール宅急便で送った。
「食べた?」と聞くと「一枚は食べたけど、もたれっぽいので二枚は冷凍してある。」
と言っていた。その時、大好きなステーキなのに・・・とちょっと不思議に感じた。
 
 
 
 
<2001年3月頃>
 
店の中を一日中走り回って仕事をしているので、足の指の間に「まめ」が出来てつぶれ、また出来てつぶれ、痛くてツライと言っていた。
 
 
<2001年4月>
 
「『新人で、これだけの仕事をやりこなしているのは凄い。お前は店長になれる素質を持っている。店長候補だ。』と店長から言われたよ。僕は店長を目指すよ!」と言っていた。
 
 
帰郷の時、「痩せたね。」と言うと「10kg以上やせたかな?」とお風呂から上がった時、パンツ姿で私に向かって「見て!」とガッツポーズのような格好をした。その時、肋骨が浮き出ていてびっくりした。
「これ以上痩せないように気をつけなよ。ちゃんと食べて!」と言うと「そうだね、とにかく大変だよ。でも頑張るしかないよ、店長の為にも。」と言っていた。
100%店長を信頼しているんだなと強く感じ、意地らしくもなった。
それからの私は「体は大丈夫?気を付けてよ、体が一番だからね!」と電話の度に口癖のように言っていた。
本当に、親として悔いが残る。その時のガッツポーズが今も目に焼き付いて離れない。
 
 
<2001年5月>
15日
電話があり「凄く疲れているから栄養ドリンクを送って!」
なにか急いでいる様に感じ、翌日、宅急便で朝10時前に着く便で直ぐ送った。
結局、その夜は仕事(開店協賛)が深夜まで掛かり、ホテルに泊まりになったそうだ。
17日
またホテルから、朝6時頃出勤したと言っていた。
18日19日
早朝6時15分モーニングコールを頼まれコールした。
20日
早朝6時45分モーニングコール。
 
店長が連休を取った為に息子にしわ寄せが来たという事も分かった。
この頃から、心身の疲れがひどくになり、ピークに向かって行ったと思う。
 
それでも母の日のプレゼントは届いた。
忙しかったのか、とても乱れた送り状の字だった。
私好みのミラーショーンのキーケース、今でも手にする度に胸が締め付けられる思いがします。
 
 
<2001年6月>                                           ページTOPへ
 
6日
夜11時15分頃
貴紀  「今から帰るよ。明日は久しぶりに平日休みだ〜。めずらしいよね! 彼女と2人で、父の日のプレゼントを買いに行くつもりだよ。お父さんには内緒にしておいてよ〜。」
私   「わかったよ。内緒にしておくね。」
この電話の会話が、私と息子の最後の会話となり、私の聞いた最後の言葉になってしまいました。
 
 
7日
朝8時30分頃
「息が止まっている、すぐ来て!」と貴紀の彼女と病院からの報を受けた。
私は、息子が生きていて欲しいと願いつつ、「とうとう恐れていた事が!会社に殺されてしまった!」と咄嗟に思いました。
 
 私と長男は、主人より一足遅れて病院へ着く。
 
 病院内の消毒液の臭いが鼻を突き、一刻も早く貴紀のところへと、すくむ足を奮い立たせて緊急処置室へと向かいました。
 しかし、息子の胸の上に組まれた両手は硬直していました。今まで見たことが無いほど無残に痩せこてしまった息子との対面は、本当に哀れな悲しい対面になってしまったのです。
 やはり、過労死に違いない!とその時、直感しました。
 
 私と主人、長男の3人は、ひとまず控え室へ通された。
 
 すでに控え室にいた貴紀の彼女が泣いており、そこへ店長が入って来た。
私  「貴紀がお世話になって・・・。とてもいい上司だと聞いておりました。でも貴紀はすごく痩せてしまってましたよね。」
 
店長 「そうです。わかっていました。私がもっと早く何とかしてあげればこんな事にはならなかったのに・・・。申し訳ありません。」
と頭を下げた。
    「杉山には、どれだけ助けられていたか・・・」
と涙を溜めていた。
 
 
 亡骸となってしまった息子を乗せたワゴン車へ、主人と乗り込み、せめて息子が仕事をしていた店を最後に見ておこうと永覚店へ向かいました。
 ああ、ここで息子は命を懸けて、精一杯頑張っていたのかと思うと、止めど無く涙があふれた。
 
 私の頭の中はグシャグシャ、心臓の音が体全体に響いていました・・・。
 
 
8日〜
 家へ着き、通夜・葬儀・・・何日間。
大勢の人達がうちを訪れたが、真っ白でほとんど記憶が無い。
 どうして過ごしたのか今でも空白になってしまっています。
 


 
20日 
 息子の寮から荷物を運んで来ることになった。
 私は行く事は出来ず、主人と長男が現場へ行き、引越し屋さんにお願いし、荷物を家に運んだ。
 これからの夢や希望に向かって備え買った物を目にした時、言いようの無い切なさと無念さが込み上げ、涙した。
 
 
 
                                                    ページTOPへ
 
私達は、親として、息子がなぜ死に至ってしまったのかを明らかにしなければいけないと思っています。
親元を離れての仕事や生活・・・疑問ばかりが残っています。               
仕事中、傍にいて息子の様子を見ていたはずの直属の上司、店長は勤務状況の全てを知っているのでしょう・・・勤務表の実態も。そして息子の異常に気づきながらどうして何もしてくれなかったのか?上司の管理責任を問わざるを得ません。
その店長は、人間として良心の呵責に苛まれる事はないのでしょうか?店長自身、自分にも息子がいるはずなのに・・・。
今思うと、息子があれほど信じていた店長は、息子の純粋で真っ白な気持ちを口先だけで利用したのではないかと裏切られた気持ちで一杯になってしまいます。
 
 
息子の将来はもう無いのです。短い24年間の終止符を打たされてしまったのです。
息子に会いたい、でも死は現実です。涙が出て、悲しくて、寂しくて自分の気持ちの中が、がんじがらめになって、どうしようもなくなる、毎日がその繰り返しです。
 
今も、二階の息子の部屋には、亡くなる前日まで着ていた白衣が、洗わず汚れたままの姿で掛けてあります。
もう誰も着る事の無い、その白衣に触れる度に「何とかしてあげるからね!頑張った証を。」と声を掛けずには居られません。
もう、この部屋には二度と帰って来る事はない。この机、この教科書、このノート、このベッド、布団、もう何一つ使われる事は出来ないのです。
 
 
そして今でも、お墓参りは毎日かかさず私の日課となっております。行かずには居られないのです。
息子の無念を晴らすまではと・・・言い聞かせながら。
希望をもっていたのに、生きていたかったのに、会社に殺されてしまった息子。確かに会社にとっては単なる一社員の死なのかもしれません。
 でも、私達には何にも変え難い、大事な、大事な宝物なのです。    
スギヤマ薬品(ドラッグスギヤマ)は一体社員の死をどう捉えているのでしょうか? 
法に触れない殺人ではないかと思ったりもします。
 
 
息子の命は一体何だったのでしょうか?
「死人にくちなし」 息子が哀れで仕方ありません。
 
 息子を返して欲しい!
 

 

 

 

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