○平成20年3月3日提出 附帯控訴に関する父の陳述書
以下、控訴審第1回口頭弁論日(平成20年3月19日)の前に提出した、附帯控訴に関する父の陳述書を公開します。
※伏字等ご了承下さい。
陳 述 書 杉 山 正 章
1 私の息子、杉山貴紀は24歳の若さでスギヤマ薬品に命と将来を奪われてしまいました。今生きていれば31歳になったばかりの青年だったはずです。志半ばで人生にピリオドを打たされてしまった事は本人もさぞ無念だったと思います。そして、親としても本当に無念でなりません。どうすることも、どうしてやることも出来ず、言葉に代えがたき苦悩に襲われ続けています。これは子に先立たれた親にしか分からない苦悩だと思います。
大きな希望に満ちた将来を夢見ていたと思います。親としても息子の将来に期待し、その幸せを願っていました。これから色々と楽しい事や嬉しい事が沢山あっただろうに・・・。いくら悔やんでも悔やみきれません。
2 貴紀は、私が薬品関係の会社を経営している姿を見て、自分も薬品に関わる仕事をしたいと思い立ち、薬剤師を志しました。ゆくゆくは私の会社の後継者として迎えるつもりだと本人にも話していましたし、私も大いに期待し一緒に仕事ができる事を本当に楽しみにもしていました。大学卒業と同時に薬剤師の資格を取得し、社会人として成長したいという本人の意向もあり、大きな夢と希望と期待を胸に抱き、スギヤマ薬品に入社しました。
会社経営、サービス業をしている私の姿を見て育ったからでしょうか、貴紀は小さい頃から会社とサービス業へのこだわりがあったようです。息子が生前お世話になった方々のお話やメールを見ましても、顧客へのサービスに尽くし、顧客の為、会社の為に接客や薬品管理などの仕事をハキハキと頑張っていた姿が目に浮かぶようでした。薬剤師としての仕事に誇りを持ち、スギヤマ薬品へ愛着を感じながら働いていたのだと思います。
しかし、そのスギヤマ薬品は息子のやる気を逆手に取るように、労働基準法及び労働安全衛生法を無視して「サービス残業」「休日なしの連続勤務」を息子に強いていたのです。体調が思わしくなくてもE店長や会社に迷惑を掛けたく無いと、必死に歯を食いしばって頑張っていたのだと思います。
結果として、平成13年6月7日、貴紀は24歳の若さでこの世を去りました。
3 その後、労災認定を経てスギヤマ薬品と裁判を争っておりますが、社員への不誠実な態度、また貴紀に対する冒涜としか思えない言動には耳を疑ってしまうものばかりです。夢と希望と期待を胸に抱き入社し、会社の為に死ぬまで働いた社員に対する態度とは、人の親として、一社会人として、到底思えないのです。息子の為に、また2度とこのような悲しい出来事が起こらないようにと裁判を起こしましたが、スギヤマ薬品の書面が提出される度、法廷に足を踏み入れる度に、胸が掻き毟られる思いにかられます。悔しさ、悲しみ、憎しみ・・・色々な思いが湧き上がります。そのような精神的苦痛に耐えながら、心を強く持とうと精進し、裁判の公正さと息子の真実を信じ、これまで闘って参りました。そして、第1審では、勝利判決を頂く事ができました。
勝利判決を頂いた後、私共遺族は「控訴をしないで頂きたい」旨のお願いをするため、スギヤマ薬品本社を訪問いたしました。会社には、この判決に従って頂きたかったですし、まだスギヤマ薬品の貴紀に対する誠意に期待していたのかもしれません。 しかし、その期待は驚くほどあっけなく裏切られる事になりました。
4 私も会社経営者という立場にいる以上、裁判を起こすことには大変苦悩致しました。私を裁判に踏み切らせたのは、貴紀及び私共遺族に対するスギヤマ薬品の傲慢で不誠実な態度がきっかけでした。私も一経営者として、会社の為に亡くなった社員とそのご遺族に対し、どう対応すべきか分かっているつもりです。息子が過労死である事は火を見るよりも明らかでしたので、スギヤマ薬品もしかるべき対応をしてくるはずだと思っておりました。しかしながら、ほとんど無視され、遺族が心から望んでいる遺品の返還もありませんでした。
一年以上の勤務をしながら勤務先の自分のロッカーの中に何も無かったという事は到底納得出来ません。裁判が始まる前にも社長宛で、何度も遺品の調査依頼文を郵送致しましたが、無視され続けました。軽くあしらわれているのかと思い「配達証明郵便」で郵送致しました。しかし、結局、代理人から「調査したが何も無かった」との心ない返事が来ただけでした。生前の貴紀が「勤務先に薬学の教科書を持参して、お客さんに説明をしている。」との言葉を思い出し、薬学の教科書は必ずあったはずだと、教科書名を特定して調査の依頼をしました。後日、代理人より「会社の重要書類を入れてあるロッカーに、貴紀が無断で入れていたから分からなかった。」と、あたかも亡き息子を犯罪者扱いしたような手紙と一緒に5冊の薬学教科書が送られて来ました。
遺品についてはその後、後輩薬剤師であるKM薬剤師が、豊田労働基準監督署から聴取された際に「私とE店長で杉山さんのロッカーを整理し、30cmくらいのダンボール箱にタバコ、筆記用具、下着等を入れ、店長がお墓参りに行く時に持参すると言っておりました。」と述べております。また、第1審の証言台でE店長が「シャチハタをお母さんに返した」と証言しましたが、それは一連の証言と同じく嘘の証言です。未だに私共の手元には何一つ戻って来てはおりません。
1審判決が言渡された当日,スギヤマ薬品本社を訪問した際にも遺品について尋ねました。その時に同席していた幹部の一人が「下着ではなく、Tシャツだった。」と口を滑らし、返還されるべき遺品が実際に「あった。」事を確かにこの耳で確認致しました。しかし、その後、代理人は「前にあったのと、今あるのでは違う」と全く訳の分からない言い分で、結局、遺品については返還されずに現在に至っています。亡くなった社員の遺品にしてこのような杜撰な対応をする会社が存在するとは、私にとって甚だ信じがたい事です。
例え遺品が返還されたとしても、貴紀が戻って来ないという事は十二分に理解しております。ただ、私共遺族にとって、亡くなった息子の遺品には、夢や希望や悲しかった事や楽しかった事の全てが集約されているという事を、E店長や会社には理解して頂けないようです。
5 先日、私の会社で働いている社員の結婚式に参席し、7年ぶりに祝辞を述べました。この7年間、数多くの祝辞の御依頼を頂いていたのですが、全てお断りしてきました。今回もやはりお断りすべきだったかもしれません。貴紀の姿が目に浮かび、声が詰まってうまく話せなくなってしまうからです。正装した花婿の姿、入場、ケーキ入刃・・全てが貴紀に見えてしまい涙が止まりませんでした。
今でも息子の成長を思い、気丈な青年を見ると「貴紀と同じ位の歳だな。」と考えてしまいます。街角や駅のホームで息子に背格好が似ている人を見かけると、姿が見えなくなるまで目で追ってしまいます。小さな子供を見ても「この位の孫がいるはずだったのかな・・・」と。亡き子を想う親の心の虚しさは想像を絶するものだと実感しています。
息子が亡くなってから今日まで、妻ふじ江は一日も欠かさず墓参りをしています。7年程度の月日ではその悲しみを癒すには全く効果がないのです。雨の日はカッパをつけ、風の日はコートに身を包み、毎日毎日墓参りをする姿を見ると、母としての無念さを想い可哀想で言葉も出ません。
6 二度と帰らない息子の大切な遺品をまるでゴミ同然に扱う会社。サービス残業は当たり前、勤務表もローテーション表も保管していないなど、杜撰さを露呈し続ける会社。こんな会社が存在する事すら不思議でなりません。特に、スギヤマ薬品は医薬品を通じ、いわば顧客の健康に関わる事を生業としています。健康を謳い文句にしているのです。しかし社員の命を軽視して顧客の健康が守れるはずはありません。
第1審の判決では会社の「安全配慮義務違反」を認めて頂き、賠償金額も確定致しました。しかし、私共遺族の願いも虚しく、即日,控訴しました。スギヤマ薬品は社長が謝罪しているにも拘わらず、一審の判決を真摯に受け止め反省しているとは到底思えません。
二度と同じ過ちを繰り返させない為にも、また、会社としての社会的責任と社員を大切にすることが結果的に会社の利益に繋がるのだという事を会社や社会に認識してもらう為にも、附帯控訴を決意するに至りました。
そして、杜撰な組織の犠牲となり、薬剤師という天職を得ながらも24歳にして人生を断ち切られた息子の死を、このまま風化させる訳にはいかないと、人として親として、再び強く心に刻み込みました。
私共は命ある限り悲しみ、苦しみ、憎しみは消える事はありません。
何処かで気持ちの入れ替えをしなければと、日々苦悩しております。
裁判所には、自分より先に後継者と期待していた子を亡くし、生前息子が尽くしたはずの会社からはその我が子を冒涜されるという、親として耐えがたき苦悩は想像を絶する精神的苦痛だという事を、ご理解を頂きますよう切にお願い致します。
平成 20年 3月 3日
名古屋高等裁判所 民事第2部 御 中
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